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「島津義弘公の家老を務めた曾木家の24代目」

曾木重隆

語り手
曾木 重隆 島津義弘公奉賛会 副理事長

「鬼島津」の異名を持ち、戦国時代最強の武将とも言われる島津義弘公の家老を務めた曾木家。その24代目が重隆さんです。

義弘公は関ヶ原の合戦で徳川軍の敵中を強行突破した「島津の退き口」として有名です。この壮絶な退却戦の80数名の生き残りの中に、曾木さんの祖先の五兵衛もいました。

医学の知識もあり、文武両道。家臣を大切にし、多くの人に慕われた義弘公が没して、2019年で400年。重隆さんは島津義弘公奉賛会の副理事長として、3年後に仕掛ける行事に向けて準備中です。

野太刀自顕流の使い手と言うだけに、背筋がピンと伸び、武士の末裔としてのたたずまいを感じさせる曾木さん。富士ゼロックス鹿児島前社長の嶋田光邦氏と誇り高き薩摩の歴史を振り返りながら、未来の若者に熱いメッセージを送ってもらいました。


西郷隆盛ら薩摩の偉人を生んだ郷中教育が手本
学舎は初耳です。寺子屋や塾みたいなものですか?
曾木重隆
曾木さん 鹿児島に寺子屋はほとんどないんです。それに変わるものとしてあったのが、学舎でした。西郷隆盛ら明治の偉人を輩出した、薩摩藩の有名な郷中教育が廃れ、戊申の役の後再び世の若者の秩序が破壊され荒れた時代が訪れた時、当時の知識人たちの尽力で郷中教育を手本に作られたのが学舎です。寺子屋は学習の場で、学舎は全人教育の場と言えます。学舎は高校2年生がリーダーで、下は小学3年生ぐらいから。私は小学校4年のころから、加治木の「青雲舎」という学舎に在籍しました。士族の末裔の集まりです。各学年に4~5人いて、当時で30数人はいましたね。大人の「舎長」もいましたが、問題が発生した時に外部に対してすべての責任をとる存在。あくまで高校2年生による集団指導体制でした。
学舎では、どういった活動をしていたのでしょうか?
曾木さん 週3回集まっていました。まず土曜日の昼間に集まり、スポーツをやります。夜にも集まって、そこで勉強会です。勉強会と言っても、子供たちに順番に、テーマに沿った発表をさせるわけです。発表をもとに、みんなで討論します。ディベートの練習なわけです。そして、日曜日の朝に集まって、野太刀自顕流をやったり、ランニングをやったりします。学校とは全然関係のない集まりです。ちなみに、「じげんりゅう」の流派は2つありまして、われわれは野太刀自顕流だったのですが、他にも示現流兵法があります。

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さつま伝承をつくるにあたり

きっかけは偶然ですが、素晴らしい内容になる気配を感じましたので「薩摩の地で営む経営者に向けてメッセージ」「薩摩、鹿児島そしてこの郷土に伝えたいこと」を語り手の皆々様からメッセージとしていただくことにしました。
更新は不定期ですが、貴重なお時間を割いていただき語り手に語っていただいています。ご期待下さい。
聞き手である富士ゼロックス鹿児島株式会社嶋田光邦氏は2013年7月から懇意にさせていただき、経営者として未熟な私を、日夜叱咤激励して下さいます。
このさつま伝承プロジェクトを遂行するにあたり、かけがえのない偉大な先輩であり、親父であり、兄弟であり、親友であるといえる嶋田光邦様に深謝します。

2015.10.20
株式会社エージェントプラス
橋口 洋和