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「島津義弘公の家老を務めた曾木家の24代目」

曾木重隆

語り手
曾木 重隆 島津義弘公奉賛会 副理事長

「鬼島津」の異名を持ち、戦国時代最強の武将とも言われる島津義弘公の家老を務めた曾木家。その24代目が重隆さんです。

義弘公は関ヶ原の合戦で徳川軍の敵中を強行突破した「島津の退き口」として有名です。この壮絶な退却戦の80数名の生き残りの中に、曾木さんの祖先の五兵衛もいました。

医学の知識もあり、文武両道。家臣を大切にし、多くの人に慕われた義弘公が没して、2019年で400年。重隆さんは島津義弘公奉賛会の副理事長として、3年後に仕掛ける行事に向けて準備中です。

野太刀自顕流の使い手と言うだけに、背筋がピンと伸び、武士の末裔としてのたたずまいを感じさせる曾木さん。富士ゼロックス鹿児島前社長の嶋田光邦氏と誇り高き薩摩の歴史を振り返りながら、未来の若者に熱いメッセージを送ってもらいました。


つて鹿児島にあった、子供たちだけの教育制度
「学舎」の復活を試みる
曾木さんはみんなに慕われた島津義弘公奉賛会の副理事を務められています。
設立の主旨や経緯を教えていただけますか?
曾木さん 義弘公奉賛会の前身は、没後300年の時にできています。100年前の話ですね。その時に廃仏毀釈にて廃寺となった菩提寺本誓寺より島津家館に移されていた御霊を、加治木島津家の別荘だったところを島津家に寄進してもらい、土地を造成して、精矛神社(くわしほこじんじゃ)の社殿をつくり遷座したわけです。他にも、義弘公研究のバイブルとされる『島津義弘公記』を発刊したりと、いろんなことをやっています。ただ、1世紀前の話で、没後300年の式典後、奉賛会は存続していたのですが、会員が高齢で休止状態になっていたんです。
休止状態の奉賛会を再び復活させられたわけですね。
対談
曾木さん 私は高校卒業後、大学進学のために東京に出て、就職も東京でしました。鹿児島に戻ったのは50歳の時です。鹿児島を30年も離れていた私が、なぜ奉賛会の活動をしているのか。それは、子供のころに受けた「学舎」という教育制度と関係があります。郷中教育の流れを組む、昔の子供たちによる組織です。私が東京から帰ってきた時に、その学舎がなくなっていた。これじゃまずい、復興しようじゃないか。現在の宮司の加治木島津家13代、義秀氏と、学舎の後輩の3人で話し合い、奉賛会の活動をスタートさせました。西暦2000年のことでした。それはまさに関ヶ原の合戦から400年の年だったんです。これぞまさしく契機かなと。

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さつま伝承をつくるにあたり

きっかけは偶然ですが、素晴らしい内容になる気配を感じましたので「薩摩の地で営む経営者に向けてメッセージ」「薩摩、鹿児島そしてこの郷土に伝えたいこと」を語り手の皆々様からメッセージとしていただくことにしました。
更新は不定期ですが、貴重なお時間を割いていただき語り手に語っていただいています。ご期待下さい。
聞き手である富士ゼロックス鹿児島株式会社嶋田光邦氏は2013年7月から懇意にさせていただき、経営者として未熟な私を、日夜叱咤激励して下さいます。
このさつま伝承プロジェクトを遂行するにあたり、かけがえのない偉大な先輩であり、親父であり、兄弟であり、親友であるといえる嶋田光邦様に深謝します。

2015.10.20
株式会社エージェントプラス
橋口 洋和