新着

伝承者ご紹介

さつまで
生まれし言葉

聞き手
嶋田光邦について

さつま伝承
プロジェクト

お問い合わせ

伝承者ご紹介

「島津義弘公の家老を務めた曾木家の24代目」

曾木重隆

語り手
曾木 重隆 島津義弘公奉賛会 副理事長

「鬼島津」の異名を持ち、戦国時代最強の武将とも言われる島津義弘公の家老を務めた曾木家。その24代目が重隆さんです。

義弘公は関ヶ原の合戦で徳川軍の敵中を強行突破した「島津の退き口」として有名です。この壮絶な退却戦の80数名の生き残りの中に、曾木さんの祖先の五兵衛もいました。

医学の知識もあり、文武両道。家臣を大切にし、多くの人に慕われた義弘公が没して、2019年で400年。重隆さんは島津義弘公奉賛会の副理事長として、3年後に仕掛ける行事に向けて準備中です。

野太刀自顕流の使い手と言うだけに、背筋がピンと伸び、武士の末裔としてのたたずまいを感じさせる曾木さん。富士ゼロックス鹿児島前社長の嶋田光邦氏と誇り高き薩摩の歴史を振り返りながら、未来の若者に熱いメッセージを送ってもらいました。


ヶ原の合戦の「島津の退き口」。
生還者の80数名に、曾木家の13代がいます。

嶋田氏 曾木家と島津家とのつながりについて教えていただけますか?
曾木さん 曾木さん 昔、現在の大口に曾木城という城がありましてね。曾木家は1156年、後白河上皇の院宣を受け、その後、源頼朝より菱刈両院を安堵され下向した菱刈重妙の三男重茂が分家、曾木家初代を名乗ったものです。かつては島津家と戦っていた歴史もあるんです。島津家とのつながりは、12代曾木播磨守重治が義弘公の家臣になりまして、それ以降の付き合いなんです。島津家に重用されまして、最終的には家老になりました。黎明館に、県が編纂した『鹿児島県資料』に収蔵された資料が順次常設展示されていますが、そこに家系図が含まれています。
島津家の中でも義弘公の逸話は多いです。特に関ヶ原の合戦の話は有名です。
一点突破で退却し、薩摩に帰られると確信していたんでしょうか?
曾木さん 何とも言えませんが、必ず帰るとの意志はあったでしょうね。1000余名の兵がいて、最終的に薩摩に帰ってきたのは80何人か。うちの13代五兵衛は、帰還者の1人です。とにかく、みんなで義弘公を守ったわけです。まずは、豊久が先陣を切り、矢型の陣形で突破するわけですけど、一人が殺られると、別の家臣が命を投げ出して義弘公を守るわけです。誰も逃げ出したりしないわけです。義弘公が家臣にとても慕われていたからでしょう。朝鮮の役でも、一兵卒と一緒に焚き火を囲むような方だった。医学知識もあって、兵士の治療もされていたといいます。
曾木重隆

次ページ>> かつて鹿児島にあった、子供たちだけの教育制度「学舎」の復活を試みる

さつま伝承をつくるにあたり

きっかけは偶然ですが、素晴らしい内容になる気配を感じましたので「薩摩の地で営む経営者に向けてメッセージ」「薩摩、鹿児島そしてこの郷土に伝えたいこと」を語り手の皆々様からメッセージとしていただくことにしました。
更新は不定期ですが、貴重なお時間を割いていただき語り手に語っていただいています。ご期待下さい。
聞き手である富士ゼロックス鹿児島株式会社嶋田光邦氏は2013年7月から懇意にさせていただき、経営者として未熟な私を、日夜叱咤激励して下さいます。
このさつま伝承プロジェクトを遂行するにあたり、かけがえのない偉大な先輩であり、親父であり、兄弟であり、親友であるといえる嶋田光邦様に深謝します。

2015.10.20
株式会社エージェントプラス
橋口 洋和