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「鹿児島県民のうどん『ふく福』の創業者」

寿福一隆

語り手
寿福 一隆 株式会社寿福産業 代表取締役

「ふく福」のうどんと言えば、鹿児島県民なら誰もが知る味です。
うどん店から出発した寿福産業は1975年(昭和50年)の創業以来、黒豚料理の「寿庵」、
回転寿司や海鮮和食の「めっけもん」、とんかつの「かつ寿」、ラーメンの「十八番」、
ハンバーグ・ステーキの「RED PEPPER(レッド・ペッパー)」など料理の幅を広げ、さまざまな味を県民に提供してきました。

店舗の数は「ふく福」だけで14店舗。すべてを合わせると、なんと39店舗。

寿福産業創業者で、今もトップとして鹿児島の外食産業を牽引している寿福一隆さんは、どんな思いで、経営を続けてきたのか。
富士ゼロックス鹿児島前社長の嶋田光邦氏が聞きました。


は優柔不断、だからこそ、いろんなことを試してきた

大卒時に目指したのはメディア界。だけど、パン屋に入り、そしてうどん屋で起業ですか。
寿福さん 僕は優柔不断なんで(笑)。言い換えれば、好奇心が旺盛なんです。それが良いところなんですよ。どっちでも、転ぶというところが。人間はいろんな所を見たり、いろんなことを試したりするのが大事です。とにかく、やってみればいいじゃないか、と。今も、その主義に変わりはありません。
うどん・そば店は、当時の鹿児島にはありましたか。
寿福さん 小さな家族経営のうどん・そば店はありましたけれど、チェーン展開するようなお店はなかったですね。だからこそ、チャンスだったんです。タイミングに恵まれたと思っています。世の中が外食ブームになってきている時期でしたから。当時の鹿児島はラーメン店が多かったです。僕がふく福を始めてから、鹿児島の飲食業に占めるうどん・そば店の比率は上がりましたね。
対談

創業からふく福をずっとやってきて、10年後に寿庵をオープン。
他の食に進出された理由はなんですか。
寿福さん うどん・そばで競争が増えたのもあります。ふく福だけでは広がりがないから、鹿児島という市場の中で、ちょっと業態の違う食もやろうかな、と。経営の柱を、ふく福1本ではなく、2本、3本と増やしていこうと考えたんです。

国の仲間とのつながりが、今の寿福産業をつくった
うどん、そば、ラーメン、とんかつ、しゃぶしゃぶ、寿司と多面展開はわかるのですが、
料理人の育成は簡単ではないと思います。
寿福さん 確かに料理人の育成は問題でした。でも、幸いなことに、人に恵まれました。もう一つ、大きかったのが、飲食のコンサルタント会社です。現在はもうないのですが、OGMという会社とのかかわりで、全国に飲食業界の仲間が増えたのです。研修会では、外食に関わるいろんな業種、業態の人たちが集まって、それぞれの食について教え合ったりしました。多面展開するときに、われわれが知らない食のことは、OGMの仲間が教えてくれたんです。
実は料理人はすべて、自分たちで育てました。寿司職人だって、うちには1人もいなかったんです。僕自身が新しい食を学びに、仲間の元へ足を運びました。唯一、寿司屋だけは行きませんでしたが、埼玉の寿司店に、5人を修行に行かせました。とにかく、教育にはお金をかけてきました。
仲間とのつながりが、今の寿福産業をつくったのですね。
寿福さん 今の僕があるのは、人とのつながりです。ラーメンを始めたのは、OGM仲間とのつながりです。他のメニューにおいても、いろいろと学ばせていただきました。
料理の裏には、いろんな人のつながりがある。すごいことですね。
寿福さん 外食産業は、いろんな人とのつながりがあって存在しています。人が中心の仕事だと思います。食は人が介在して、食材・調理・接客に愛情が入ってこそ、おいしく食べてもらえるものだと思っています。それが一つでも欠けると、おそらく外食産業は将来ダメになっていくんじゃないかと思っています。
人とのつながりを大事にすることが、寿福さんの経営者としての信念なんですね。
寿福さん 僕の信念は、人を大事にすることです。お客様を含めて、人のありがたさを知る。人があってこそ、生かされる。今の僕があるのは、いろんな人に出会って、いろんなものの見方を知ったからです。僕一人の目では、今はありません。
いろんな所に行けば、汚いものだって見ます。だからこそ、きれいなものの良さがわかる。いろんなものを見て、良いものを感じることが絶対に必要です。そうした繰り返しで、人間としても成長し、人に対する優しさや思いやりも出てくると思っています。
ところで他県で店を出しているのは、ふく福の熊本・八代だけですよね。
なぜ、もっと他県に出店しないんですか?
寿福さん 実は宮崎や福岡に出店しようかな、と立地を見に行ったこともあります。そんな時に限って、鹿児島でいい土地が出てくるんですよ。そんなわけで、鹿児島ばかりの出店になってきました。また、うちの場合はうどん、そば、ラーメン、とんかつ、しゃぶしゃぶ、寿司、ステーキ、ハンバーグと、いろいろな職種の料理人を育てる必要があり、それには時間がかかります。
もちろん、他県に進出しようという気持ちはありました。博多に行きたい、との思いは今も持っていますよ。ただ、熊本市内で一度、失敗しましてね。それから、ちょっと慎重になっています。今は一地域に多業態を集中する、ドミナント方式に力を入れています。鹿児島を出て、アジアを含めた他地域に進出するのは、僕の次の世代になるでしょうね。
寿福一隆2

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さつま伝承をつくるにあたり

きっかけは偶然ですが、素晴らしい内容になる気配を感じましたので「薩摩の地で営む経営者に向けてメッセージ」「薩摩、鹿児島そしてこの郷土に伝えたいこと」を語り手の皆々様からメッセージとしていただくことにしました。
更新は不定期ですが、貴重なお時間を割いていただき語り手に語っていただいています。ご期待下さい。
聞き手である富士ゼロックス鹿児島株式会社嶋田光邦氏は2013年7月から懇意にさせていただき、経営者として未熟な私を、日夜叱咤激励して下さいます。
このさつま伝承プロジェクトを遂行するにあたり、かけがえのない偉大な先輩であり、親父であり、兄弟であり、親友であるといえる嶋田光邦様に深謝します。

2015.10.20
株式会社エージェントプラス
橋口 洋和